ヨガが教えてくれた「自分軸」と「他人軸」

ヨガエッセイ

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SAORI
SAORI

こんにちは!
今日のテーマは「自分軸」と「他人軸」です。
「自分軸」と「他人軸」には、どのような違いがあるのでしょうか?

「自分軸」と「他人軸」とは

「自分軸」とは、物事の判断・行動基準の中心に自分の信念と意志がある。

「自分軸」で行動する人は、他人の意見や批判、期待に振り回されない。

どこまでも自分の本音に素直で、自分自身の価値観や信念に従い行動する。

これが自分軸だ。


自分軸で行動する人は、物事の判断・行動基準の中心が自分なので、自然と他責思考から離れるのも特徴だ。

自分と相談し、納得して物事を進めるため、仮に失敗したとしても、失敗を前向きに受け止めて次の挑戦の力に変えて行動できる。

そのため、何事も楽しみながら取り組めるのも「自分軸」で生きる人の特徴ではないだろうか。

もちろん、ライフステージの変化で物事への思考・価値観は変化する。

しかし、思考・価値観の核となる部分には、普遍的に変わらないものがあるはずだ。

他人にどう見られたいかではなく、自分がどう在りたいか。

在りたい自分の核にある信念は、ライフステージや物事への考え方・価値観が変わっても変わらない。

それこそ「自分軸」の超中心ではないだろうか。

一方で「他人軸」とは、他人からどう思われるか、どう評価されるか、どう評価されたいかが行動基準になる。

本音では違うことを感じていても、他人の価値観の枠内に自分を納めようとする。いや、閉じ込めようとすると言っても過言ではない。

そのため、何か物事がうまくいかない場合は、他責思考になりがちだ。

自分の本音に従わず、打算で動くため

「本当はこうしたかったのに…」

「あの時ああすればよかった…」

等々

後悔が残りやすいのも特徴だ。

他人軸を判断基準にして生活し続けると「本当の自分」がどんどん遠くなり、物事への感度も直感も鈍くなる。

だが、他人軸で行動できることは素晴らしい面もある。

他者の思いを想像する力に優れ、共感し、調和する能力が高い。

もれなく社会適合力も高いのだ。

しかし、常に他人に合わせてばかりいれば辛くなる。

自分軸に戻れる時間を確保することが必要ではないだろうか。

「自分軸」で生きるとは?

SAORI
SAORI

日本で「ヨガ」というと、ポーズの練習をすることが一般的です。
本当は、ヨガのポーズはヨガの実践の中の1部分です。
ヨガとは自分の身の回りを整えることや人間としての道徳心を育むことから始まります。

ヨガを実践するうちに「ヨガは単なるダイエットやボディメイクのためのエクササイズではないと心身共に感じる方が多くいる。

言うまでもなく私もその中の1人だ。

なぜヨガを実践する人が、口を揃えて「ヨガに救われた」心と体が整う」と言うのか。

それはヨガを実践することそのものが「ありのままの自分に向き合うこと」であり「自分で自分を救うこと」だからだと私は思う。

ありのままの自分に向き合うことこそ、自分軸を知り、自分軸に戻ることなのだ。

では「ありのままの自分」とは何だろう?

私が思う「ありのままの自分」とは「嘘のない心に従って存在する」ことだ。

自分軸で生きるとは、自らの心に従い生きることだ。

ヨガの実践を続けると、あらゆる角度から心の中に気付きが届く。

今日はその中の1つである「自分軸」と「他人軸」について書く。

ヨガポーズの練習中に感じた「自分軸」と「他人軸」

SAORI
SAORI

ヨガのポーズの練習を続けていくと、ふと色んなことに気がつきます。
私はヨガポーズの練習は、まるで人生の縮図のようだと感じます。

ある日、いつものようにアーサナ(ヨガのポーズ)を練習していた。

その日は友人とピンチャマユラーサナ(孔雀の羽のポーズ)を練習し、失敗しては変な形で倒れて爆笑を繰り返していた。笑

倒れて動画を確認して爆笑、このループを繰り返している内に…ふと

「いつでも幸せは自分が決める」

そして

「ヨガを行うことは自分軸、ありのままの自分自身に戻ることなんだ

「完成(ゴール)だけに捉われず、その過程を楽しむことに意味や発見がある」

「完成に固執しすぎず適度に力を抜くことも大事なのではないか

と、感じた。

人は自分の心に素直に生きる時、すなわち心の声と行動が一致した時に純粋な幸せを感じるのではないだろうか。

その状態こそ「自分軸」で生きている状態だ。

自分軸で生きることで心から満たされる。

心が満たされた状態で過ごすことが更に幸せを引き寄せる。

いや、引き寄せるのではなく「日常に溢れている幸せ」に焦点が合うのだ。

では、人が不幸や不足を感じるのはどのような時だろう?

それは「人生を他人軸で生きるだ。

他人軸とは、自分の本心ではなく、人の目、世間体、地位、肩書き、名誉、流行り…外部の情報や声を基準にした軸だ。

他人軸で生きる時間が長くなるほど本来の自分から遠ざかるだろう。

なぜなら他人軸で生きることは本来の自分を閉じ込めて生きることになるからだ。

自分軸で生きる時、他人が自分をどう見ているかは重要ではない。

自分の心に従う生き方は、いかなる瞬間も色鮮やかに自分の生きる世界を照らす。

ピンチャマユラーサナの練習と転倒を繰り返しながら、そんなことを感じたのだ。

もし

「意地でもピンチャマユラーサナをできるようになる!」

「あの人は出来て、私には出来ないなんて…」

と、他人軸で練習すれば、転倒を爆笑することも、純粋にヨガの練習を楽しむことも、今ここに書いていることを感じることもなかっただろう。

もしかすると「できない自分は努力が足りない!」だとか「自分なんて…」「なんで出来ないんだ、自分のバカヤロー!」と自己否定したかもしれない。

きっとそんなパツパツに張り詰めた状態では気が付く余裕が生まれないのだ。

その時、私はただ純粋にヨガの練習が楽しかっただけだ。

練習するたびに震える二の腕、重くなる肩、やけに高く上がる足や、妙に上達した転び方、キープしようと頑張る時の眉間の皺の感覚や、頭に血が流れていく感覚、そしてマットに転げた時の安心感と無様な姿…笑

そんな一瞬一瞬が面白く、笑いを我慢せずにはいられなかっただけなのだ。

そして、そんな時間に幸せと豊かさを感じた。

同時に、完成形まで辿り着くことができない今日が、今日の完成であり完全であることを身体中で体感した。

ヨガが気付かせてくれることは人生の真髄のようだ。

ヨガは無形だ。

でも、もしヨガが生き物で言葉が話せるとしたら

「自分の心に従って人生を歩こう。焦らないで、今この瞬間を全身で感じて、味わって、あなた自身の心と繋がって生きよう

そんな言葉をくれる気がする。

それはとても軽やかで、優しい春風のように、全部の不安も希望も包み込み背中を押してくれるイメージだ。

全ての瞬間がヨガ

そもそも「ヨガ」という言葉には「繋ぐ」「調和」という意味がある。

自分と自分の心を、自分と他人を、自分と世界を、自分とあらゆる物を繋ぎ調和する。

それがヨガなのだ。

ヨガはポーズの練習だけではない。

日々何を食べるか選択し、身の回りを整え、自らを清潔に保つこと。

人を騙さず、暴力せず、自分に誠実でいること。

そして、今この瞬間に集中すべきことに取り組むこと。

ヨガとは、生きることそのものなのだ。

生きている限り、私たちは人や物や環境、何かと繋がり調和していくのだ。

アーサナ練習で気が付く「自分軸」

アーサナ練習で私たちは自分軸に気付くことができる。

他人ではなく完全に自分に集中するからだ。

アーサナ練習は、人と自分を比較することの無意味さに気付かせる。

アーサナ練習において、人と自分を比較しても何も生まれないからだ。

ポーズを練習するために動くのは「自分」以外の誰でもない。

呼吸するのも「自分」でしかない。

自分が直立不動のまま動かなければ、アーサナの練習はできない。

人がどうだとか、自分にはできないとか、頭で色々考えても現実は何も変わらない。

動くとしたら感情だけだろう。

感情のみ動いても現実は変わらないのだ。

現実を変えるには自分が行動するしかない。

アーサナ練習に真摯に向き合った時、完全に意識は自分に集中する。

グラつこうと、硬かろうと、完成形までポーズが深くならなくても、そんなことはどうでもいいのだ。

重要なのは、今日ベストを尽くしたという事実だ。

これを繰り返していくと、アーサナをキープするためのコツに少しずつ気が付く。

力を入れる、力を抜く、1歩戻ってキープする、3歩戻る、またはもう1歩踏み込む。

どこが自分の最善の場所なのか、その時々で判断できるようになる。

それはまさに自分軸に集中した状態だ。

他人軸のまま練習すれば「3歩戻るのはカッコ悪い」「1歩戻るのは人より出来ていないように見える」とか、他人目線になるだろう。

これは人生における試練や逆境に直面した時にも共通するのではないだろうか。

人生における試練、逆境に直面した時のバランスの保ち方、向き合い方、踏ん張り方、振り返るのか進むのか判断力、自分の許し方、休み方…

自分軸で取り組めば、自然とそんなことが上手になる。

これらをピンチャマユラーサナの練習を通して学んだ気がするのだ。

マットの上で学ぶことは、日常生活に活きるのだ。

「他人軸」に集中すると感じること

では仮に「他人軸」でヨガを練習したらどうなるだろうか。

「このポーズができたら凄いと思われる」

「これが出来ないことで舐められたくない」

「みんなが出来ているのに、自分だけ出来ないと恥ずかしい」

そんな気持ちで講師のガイドを無視して取り組めば、怪我をしたり呼吸が止まったり…ヨガ本来の効果も少なく常に人から見た自分に意識が向くだろう。

「他人軸」や「人と自分を比較する」ことに意識を向ければ自分の心から遠ざかる。

他人軸で生きると他者と自分の比較になり、自分に「ない」「足りない」に自然と意識が向いてしまうのだ。

「ない」に集中した状態で過ごすと、不足や不満に敏感になり、既にある幸せが感じにくくなる。

「ない」「足りない」その思考がベースになると、常に幸せ外的要因で埋めようとするだろう。

外的要因を手に入れた時は満たされる。

でもすぐに足りなくなる。

この繰り返しだ。

他人軸で生きれば幸せが常に外にある認識だ。

それは、常に足りない何かを探している状態だ。

自分軸で生きれば、幸せが常に内側にある認識だ。

それは、常に内側に在る幸せを育む状態だ。

「幸せ」も「ヨガ」と同じく無形だ。

「幸せ」を感じるのは物ではなく「心」なのだ。

幸せを感じられる心の状態を整えておけば、いつでも心から無限の幸せを感じることができる。

「自分軸」と「他人軸」選ぶのは自分次第

しかし実際は「自分軸で生きる」「他人軸で生きる」その双方に良し悪しなどない。

事実は、自分が何を選択して生きるのか、ただそれだけだ。

命がいつ終わるかは誰にも分からない。

たった1度の人生、同じような毎日だとしても、今日は1日限り。

今日何をして過ごすかも、自分軸、他人軸で生きるのも、結局は自分自身の選択でしかないのだ。

そして、その選択の積み重ねが間違いなく人生となるのだ。

最後に

ヨガをすること。

それは日々の選択上手になることとも言えるのだろう。

私たちは日々当然のように比較され、仕事においては完璧を求められる。

仕事においてはクオリティーが重要で手を抜けないことだらけかもしれない。

人と比較することが必要なこともあるだろう。

むしろ、そんな時間の方が圧倒的に多いことは承知の上だ。

比較されることで磨かれるサービスや技術や能力もあるだろう。

社会においては絶対必要条件かもしれない。

でも、だからこそ…他の何とも比べる必要のないヨガの時間が必要で、その時間に救われるのだ。

ヨガはありのままの自分に戻れる時間だ。

頑張る必要がないのだから。

もちろん頑張りたければ頑張ればいい。

ヨガはどこまでも自分に優しい。

ヨガは、日頃から頑張っている「外に意識が向いたあなた」と、ありのままの心が求めている「内側のあなた」を繋ぐ。

私は、これからも心が喜ぶ方へ進んでいこうと思う。

こんな気付きや小さな選択の連続がたまらなく愛おしい毎日だ。

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